2015年1月26日月曜日

中上健次 千年の愉楽 熊野集/日本文学全集 23

中上健次の小説を読んでいると、とても戦後の作家の作品とは思えないような世界が広がっている。それは、かつて、日本にもあったのかもしれない現代とは異質な世界“前近代”の肌ざわりのようなものだ。

「千年の愉楽」に収められた「半蔵の鳥」と「ラプラタ綺譚」は、“中本の血”を引き継いだ若衆二人、一人は淫蕩にふけり、一人は盗人の道に走り、ともに恒星のように強い輝きを放ちながら滅んでゆく過程を、オリュウノオバという産婆が見とどけるという物語だ。

二人の若衆の美しさは、オリュウノオバが感じたように、どこかこの世のものとは思えない非現実的なものであり、ガルシア・マルケスの小説で見かけるマジック・リアリズムに近い印象を覚える。

その二人の生き方は、オリュウノオバの夫である礼如さんが、人間とはこういうもの、と説明したそのもののようだ。
井戸の底におそろしい大蛇がパクリと開いた口に火焔のような舌を動かしていた。死ぬと気づいて旅人は夢中で渾身の力をこめて昇りかかろうとしたが、頭上にはすでに猛獣のうなり声がし、その牙がみえた。…命のツナとたのむフジヅルの根を昼の白ネズミと夜の黒ネズミが出て来てかわるがわるかじる。もう死ぬ、死は必定だ。その不安の中にあっても旅人は眼前の歯の上に甘そうな蜜のたまりを見つけると夢中で舌を出して蜜をなめすすった
私が“前近代”と感じるのは、二人の若衆が自分の意思というよりも、“中本の血”という訳の分からないものの力で、そのような生き方をせざるを得ないところにあるかもしれない。

「熊野集」に収められた「不死」「勝浦」「鬼の話」も、現代から遠く離れた幻想的な物語だ。

「不死」は、被慈利(ひじり≒聖の意か)が、山の中で異形の女に出会う話、
「勝浦」は、体が溶ける病にかかった男が、女の生血で反物を染め上げる話
「鬼の話」は、鬼退治をしようとした荒くれ者が、鬼に食いちぎられる話

いずれも、高野聖のような怪奇談だが、熊野の草深い森と男女の性が強く匂ってくるような作品ばかりだ。

2015年1月25日日曜日

2015年の幕開け

内田樹さんのブログに掲載されていた「2015年の年頭予言」には、以下のような言葉が載っていた。
今年の日本はどうなるのか。 
「いいこと」はたぶん何も起こらない。
「悪いこと」はたくさん起こる。
だから、私たちが願うべきは、「悪いこと」がもたらす災禍を最少化することである。
その、あまりにペシミスティックな内容に、年初ばかりは少しでも明るい気持ちでいようと思っていた私は、かなり反発を覚えた。

しかし、悪い言葉というものは不思議に心に引っかかるものである。

今年1月7日に発生したフランスにおけるテロ事件。

風刺画を載せていたフランスの新聞社が襲われたことについて、言葉に対して暴力で報復することは絶対に許されるべきでないことは間違いない。

ただ、表現の自由には、いかなる表現も制限されることなく守られるべきだというフランスと、他者への配慮も必要ではないのかというイスラム社会の声を考えると、現下の政治情勢において、これは、ひと言で言いきれるほど、簡単な問題ではないという思いが過った。

1月11日、フランス史上最大と言われたデモ行進を見て、「わたしはシャルリー」と書かれた紙を、屈託なく掲げることができたかどうか、自分としては非常に心もとない思いがした。

そんな欧米諸国とイスラム社会に緊張が漂う中、まるで、真空状態にあった中東諸国 エジプト、ヨルダン、イスラエル、パレスチナを、1月16日から21日まで訪問した安倍首相は、いつもより、その存在感が浮き上がっているかのように見えた。

その安倍首相が1月18日に行ったスピーチにおける以下の声明が、今回のイスラム国による日本人を人質にとった身代金等の要求事件のトリガーを引いたことは間違いないだろう。
イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します。
(英訳された声明文では、人道支援目的というより、さらに「ISILと闘う各国のため、人材開発、インフラ整備を支援する」という部分がクリアになっている感じを受ける)http://www.mofa.go.jp/me_a/me1/eg/page24e_000067.html
I will pledge assistance of a total of about 200 million U.S. dollars for those countries contending with ISIL, to help build their human capacities, infrastructure, and so on.
しかも、報道によると、政府関係者は、すでに中東訪問前には、今回の日本人2名がイスラム国に拉致されていることを把握していたということだ。つまり、安倍首相の声明が、今回のような事件を誘発する危険性は事前に察知できていたはずなのだ。

(日本がイスラム国と敵対する国々に資金援助したのは人道支援目的なのだから、日本はイスラム国に敵対していないなどと、イスラム国が思うはずがない)

つくづく、何故この時期に安倍首相が中東を訪問したのかについて、疑問が残る。

日本のメディアは報道しないが、一つにはアメリカ政府から日本政府にプレッシャーがかかっていたということは予想できる。

「同盟関係にある日本は、アメリカが中東で展開しているISILに対する空爆、反テロ政策を支持するアクションを取れ。それは日本の利益にもなる。」

そんな圧力がアメリカ政府から日本政府に対してあったとしても不思議ではない。

しかし、日本人2名の拉致情報を把握していれば、1月当初に起こったテロ事件も踏まえると、二人の日本人の生命がかかった最悪の事態も予測し、訪問時期を延期するなど再検討することもできたのではないだろうか。

その「国民の生命の危険」と「アメリカの意向」を天秤にかけ、後者を優先し、イスラム国を刺激するような声明をあえて表明した日本政府の姿勢は、とても、「人命を最優先」にしたものとは思えない。

最悪のことを考えれば、今後、日本はイスラム国のターゲットとなり、フランスで起きたようなテロ事件も起こりうるかもしれない。

安倍政権が掲げる「積極的平和主義」の危うさが、年初早々に顕在化した事件であるが、さらに最悪のことを考えれば、安倍政権がこの事件を契機に、テロとの闘いを錦の御旗に、いよいよ、集団的自衛権の行使容認、憲法改正の着手実行の段階に移ってゆくことも予想される。

内田樹さんの予言が外れることを、心から願う。

2015年1月18日日曜日

平井和正さんの死

「幻魔大戦」シリーズ、「ウルフガイ」シリーズを書いたSF小説家の平井和正さんが、昨日、亡くなられたという。

http://www.wolfguy.com/

最近のWebでの音信不通が気になっていたが、やはり、病気療養中ということだったらしい。

私が読書のよろこびを知ったのは、間違いなく、平井和正さんの作品がきっかけであり、あの聖なるものと悪と暴力が常にせめぎ合っていたダイナミックな物語のおかげである。

読みだすと止まらない。次の本がいつも待ち遠しかった。
こんなしあわせな読書体験は二度と得られないだろう。

すでに平井和正さんは、全集を出しているようだが、後年発表された電子書籍オンリーの作品についても、どこの出版社でもよいから、本として出版してほしい。

できれば、生賴範義さんのイラストの背表紙で。

また新刊を読んでみたかった作家の一人だった。


2015年1月12日月曜日

中上健次 鳳仙花/日本文学全集 23

この小説は、あまりにも、前近代的な世界に満ちている。

昭和六年ごろの日本(紀伊半島 古座)とは、こんな所だったのか、と思ってしまうほどに。

貧困、多産、産婆、出稼ぎ、女中、若衆、野合、木場、女郎、朝鮮人、差別、刺青、博徒、行商…

しかし、この物語の中では、いまや社会の表側から消え去ったこれらの存在が、ひどく人間的で、懐かしいもののように思える。

この物語は、主人公の十五歳からの約二十年間の人生を、紀伊半島にある古座と新宮という閉じられた世界で描かれている。

だからこそ、その世界は人と自然、時間や思いが濃密に交錯していて、現代のパサパサとした生活とは、まるで異次元の、濃い原色の世界のように感じるのかもしれない。

そして、この物語を、どうしようもなく魅力的なものにしているのは、間違いなく、主人公のフサだ。

彼女は、五人の子供を産み、仲の良い夫に先立たれながらも、戦争の混乱期のなかを、たくましく生きる。

そして、彼女の強い生命力のあらわれのように、女性としての美しさを失わず、複数の男に求められ(彼女が求め)、子供を体に宿す。

一生懸命、精一杯に生きることと、男とまぐわい、子を産み育てることは、まるで同じことだというように、彼女の生き方は映る。

私の少ない読書経験でいうと、フサは、モラヴィアが書いた「ローマの女」の主人公アドリアーナに似ている。

こんなに力強く生きる女性を描いた日本の小説が、しかも1980年という世の中がどんどん明るいものだけになってゆく時代の小説の中にあろうとは、思いもしなかった。


蜷川実花の帯写真が美しい。

2015年1月10日土曜日

翻訳問答/片岡義男・鴻巣友季子

本書では、翻訳家である鴻巣友季子と、小説家の片岡義男が、以下の作品の出だしの部分を、それぞれ翻訳しており、英語の原文も掲載してあるから、それを見ながら、二人がどう翻訳したのかを比較できるようになっている。

・ジェイン・オースティン 「高慢と偏見」
・レイモンド・チャンドラー 「長いお別れ」
・J・D・サリンジャー 「バナナフィッシュにうってつけの日」
・L・M・モンゴメリー 「赤毛のアン」
・トルーマン・カポーティ 「冷血」
・エミリー・ブロンテ 「嵐が丘」
・エドガー・アラン・ポー 「アッシャー家の崩壊」

そして、鴻巣と片岡が、お互いの翻訳文を見ながら、何故そう訳したのか、単語の意味や文章の構文の捉え方、翻訳に対するお互いのポリシーなどを話し合うのだが、内容的に突っ込んだものになっており、素人から見ると、翻訳とはそういうことを意識しながら行うのかという発見が幾つもあった。

特にチャンドラーの「長いお別れ」の中の、 At The Dancers they get the sort of people that disillusion you about what a lot of golfing money can do for the personality.という文章について、二人が村上春樹訳とは異なる解釈で翻訳していること、しかも、その解釈の方が村上春樹訳より合理的ということに驚いた。

また、チャンドラーの小説で、比喩が多用されていることについて、片岡が、
一人称による語りをタイプライターで記述していくとき、合いの手のようにあらわれる作者自身が、比喩なのかもしれません。Iが本来の外側で、合いの手としての比喩は、なに憚ることのない内側である、というような。
と解釈しているのも、なるほどと思わせるものがある。

ちなみに、鴻巣と片岡の翻訳文だが、個人的には、片岡の翻訳文の方が上手いと思いました。

プレーンな直訳で無駄な言葉(浮ついた言葉)が排除されていて、とても、すっきりしている。
つまり、ほとんど、片岡らしい日本語で表現されているのだ。

それは、片岡が自分の言葉のキャパシティに入らないものを、容赦なく切り捨てているからだろう。
実際、片岡は、翻訳者としての自分の日本語で伝えられるのは75%と述べている。

反対に、鴻巣は、「憑依体質」と言っているが、他人の文体に100%支配される感覚で翻訳を行っているという。
翻訳専門家と小説家の違いが如実にあらわれていて、とても面白い。

なお、本書には、日本の英語教育についての批評や日本語的な言語感覚についてもコメントされている。

日本で普及している英語の検定や試験を見ると、「絶対英語を使えるようにはさせない」という固い決意のもとに作られているのではないか(笑)という疑念や、

日本人はbe動詞を「てにをは」で捉えているというコメントには、

確かに!と深く納得してしまった。

翻訳問答というタイトルを、片岡義男は、Lost and Found in Translation と訳している。

もちろん意訳だが、この本を読み終わった後に、その意味を考えると、なかなか奥深い。