「千年の愉楽」に収められた「半蔵の鳥」と「ラプラタ綺譚」は、“中本の血”を引き継いだ若衆二人、一人は淫蕩にふけり、一人は盗人の道に走り、ともに恒星のように強い輝きを放ちながら滅んでゆく過程を、オリュウノオバという産婆が見とどけるという物語だ。
二人の若衆の美しさは、オリュウノオバが感じたように、どこかこの世のものとは思えない非現実的なものであり、ガルシア・マルケスの小説で見かけるマジック・リアリズムに近い印象を覚える。
その二人の生き方は、オリュウノオバの夫である礼如さんが、人間とはこういうもの、と説明したそのもののようだ。
井戸の底におそろしい大蛇がパクリと開いた口に火焔のような舌を動かしていた。死ぬと気づいて旅人は夢中で渾身の力をこめて昇りかかろうとしたが、頭上にはすでに猛獣のうなり声がし、その牙がみえた。…命のツナとたのむフジヅルの根を昼の白ネズミと夜の黒ネズミが出て来てかわるがわるかじる。もう死ぬ、死は必定だ。その不安の中にあっても旅人は眼前の歯の上に甘そうな蜜のたまりを見つけると夢中で舌を出して蜜をなめすすった私が“前近代”と感じるのは、二人の若衆が自分の意思というよりも、“中本の血”という訳の分からないものの力で、そのような生き方をせざるを得ないところにあるかもしれない。
「熊野集」に収められた「不死」「勝浦」「鬼の話」も、現代から遠く離れた幻想的な物語だ。
「不死」は、被慈利(ひじり≒聖の意か)が、山の中で異形の女に出会う話、
「勝浦」は、体が溶ける病にかかった男が、女の生血で反物を染め上げる話
「鬼の話」は、鬼退治をしようとした荒くれ者が、鬼に食いちぎられる話
いずれも、高野聖のような怪奇談だが、熊野の草深い森と男女の性が強く匂ってくるような作品ばかりだ。