私がこの論考を「私家版」と題したのは、ユダヤ人問題について、できるだけ「わけのわからないこと」を書きたいと思ったからである。作者のこの意図通りになったせいかもしれないが、私には消化しきれない「片づかない言葉」が、たくさん残った。
...「話のつじつまが合いすぎる」というのは、あまりよいことではない。「つじつまの合いすぎた話」は読者にとっての印象が薄いからである。
...逆に、どこかに「論理の不整合面」や「ノイズ」や「バグ」があるテクストは、かなり時間が経った後でも、その細部まではっきりと思い出すことがある。それは、その「不整合」を呑み込むときに刺さった「棘」がおそらくまだ身体のどこかで疼いているからである。...私たちの記憶に残るのは「納得のゆく言葉」ではなく、むしろ「片づかない言葉」である。
普通、こういう印象を覚えると、途中で読むのを止めてしまうのだが、不可解な気持ちのまま、読み切ってしまった。こういう読書体験も珍しい。
第一章、第二章、第三章、終章とあるが、私にとって最も印象深かったのは、終章である。特に、6 殺意と自責 と 7 結語がすごい。
6 殺意と自責は、自分でも、身近な人をそういう風に考える時があり、なんて自分は残酷な人間なんだろうと思う時があったが、この文章を読んでそういうことだったのかと腑に落ちた。
7 結語で述べられている哲学者レヴィナスが考えるユダヤ人にとっての神の在り方は、あまりにも成熟された考え方で、これってレヴィナス個人ではなく、本当にユダヤ人はそう考えているの?と思ってしまった。
日本人の神とも全く違うし、キリスト教の神とも全く違う。
遠藤周作の作品「沈黙」が一蹴されてしまうような神と人間との関係。
難しいけど、読む価値はあると思います。
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