2016年6月18日土曜日

光と風と夢/中島敦

中島敦は、1942年12月、三十三歳の若さで亡くなっているが、その年、この「光と風と夢」を発表している。

題名が明るいので、中島敦の印象と若干そぐわない印象を受けるが、そのギャップに惹きつけられて、ようやく読み終わった。

原題は、「ツシタラの死」(ツシタラはサモア語で「物語の語り手」という意味)だったが、出版社の要請で変更させられたらしい。

しかし、読んだ印象としては、原題のほうがしっくりとくる。時期的なことを考えると、中島は、自分に近く訪れる死の気配を感じながら、その思いを、この作品の主人公スティーヴンソンに託すつもりだったのかもしれない。

スティーヴンソンは、イギリスの小説家スティーヴンソンのことで、有名な作品「宝島」を書いている。彼も中島同様、生まれつき健康に恵まれなかったらしく、療養地を転々とし、最後に南太平洋のサモア諸島に移住し、最後を迎えた。

中島敦も、死の1年前、南洋のパラオを訪問しており、この南洋の体験も、彼を近くに感じた理由の一つだろう。

物語は、三十五歳のスティーヴンソンが喀血に襲われ、1890年から暮らしはじめた約4年間のサモアの暮らしを、彼が書いた日記を通して描いている。

日記中、たまに強く溢れるスティーヴンソンの感情は、中島敦のそれといっても違和感を感じない。
例えば、
五月XX日
…大体、私は近頃、従来の自分の極彩色描写が段々厭になって来た。最近の私の文体は、次の二つを目指している積りだ。一、無用の形容詞の絶滅。二、視覚的描写への宣戦。


…それに、彼は、父と争論したあとでは何時も、「どうして親の前に出ると斯んな子供っぽい議論しか出来なくなるのだろうか」と、自分でいやになって了うのである。…父に対する甘えが未だ自分に残っており、(ということは、自分が未だ本当に成人でなく)それが、「父が自分をまだ子供と視ていること」と相俟って、こうした結果を齎すのだろうか?…其の頃スティヴンスンは、父と衝突したあとで、何時も決って、この不快な疑問を有たねばならなかった。

十三
…肉体の衰弱と制作の不活溌とに加えて、自己に対し、世界に対しての、名状し難い憤りが、彼の日々を支配した。

五月×日
朝、胃痛ひどく、阿片丁幾服用。ために、咽喉が涸き、手足の痺れるような感じが頻りにする。部分的錯乱と、全体的痴呆。

…性格的乃至心理的小説と誇称する作品がある。何とうるさいことだ、と私は思う。何の為にこんなに、ごたごたと性格説明や心理説明をやって見せるのだ。性格や心理は、表面に現れた行動によってのみ描くべきではないのか? 少くとも、嗜みを知る作家なら、そうするだろう。吃水の浅い船はぐらつく。氷山だって水面下に隠れた部分の方が遥かに大きいのだ。

八月×日
…既に私は、自分に出来るだけの仕事を果して了ったのではないか。それが記念碑として優れたものか、どうかは別として、私は、兎に角書けるだけのものを書きつくしたのではないか。無理に、――この執拗な咳と喘鳴と、関節の疼痛と、喀血と、疲労との中で――生を引延ばすべき理由が何処にあるのだ。

病気が行為への希求を絶って以来、人生とは、私にとって、文学でしかなくなった。文学を創ること。それは、歓びでもなく苦しみでもなく、それは、それとより言いようのないものである。

従って、私の生活は幸福でも不幸でもなかった。私は蚕であった。蚕が、自らの幸、不幸に拘わらず、繭を結ばずにいられないように、私は、言葉の糸を以て物語の繭を結んだだけのことだ。

さて、哀れな病める蚕は、漸くその繭を作り終った。彼の生存には、最早、何の目的も無いではないか。「いや、ある。」と友人の一人が言った。「変形するのだ。蛾になって、繭を喰破って、飛出すのだ。」これは大変結構な譬喩だ。しかし、問題は、私の精神にも肉体にも、繭を喰破るだけの力が残っているか、どうかである。

以上、心に残った部分を引用してみたが、最後の部分の“変形”し、“蛾になって”という部分は、彼に新しい作品を書く意欲が、可能性がまだ残っていたということでしょうね。

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