2016年6月27日月曜日

巡査の居る風景 一九二三年の一つのスケッチ 中島敦/日本文学全集16

日韓併合後の朝鮮の人々の様子を、巡査の趙教英という朝鮮人の視点から描いた作品だ。

日本に支配され、抵抗もできず、無力感の漂う朝鮮の人々、そして、それを見つめる自分自身の中にも、その弱さを感じ、深く絶望する趙の姿が描かれている。

中島敦は十代に朝鮮で暮らしていた時期があるので、題材として取り上げることはおかしな事ではないが、一九二三年当時(日本では関東大震災が起こった年)に、支配される側の心情を描いているという点で稀有な作品と言えるだろう。

暗く救いのない作品ではあるが、この短い文章の中で圧倒的に輝きを放っているのは、主人公の心持ちを映しだしているかのような寒く汚らしい朝鮮の街の風景だ。
銅色の太陽はその凍った十二月の軌道を通って、震えながら赤く禿げた山々に落ちて行った。北漢山は灰色の空に青白く鋸形に凍りついて居る様に見えた。其頂上から風が光の様にとんで来て鋭く人の頬を削いだ。全く骨も砕けて了いそうに寒かった。

毎朝、数人の行き倒れが南大門の下に見出された。彼等のある者は手を伸ばして門壁の枯れ切った鳶の蔓を浮かんだまま死んで居た。
ある者は紫色の斑点のついた顔をあおむけて、眠そうに倒れて居た。

一九二三年。冬が汚なく凍って居た。
すべてが汚なかった。そして汚ないままに凍りついて居た。ことにS門外の横町ではそれが甚しかった。
支那人の阿片と葫の匂い、朝鮮人の安煙草と唐辛子の交ったにおい、南京虫やしらみのつぶれたにおい、街上に捨てられた豚の臓腑と猫の生皮のにおい、それらがその臭気を保ったまま、このあたりに凍りついて了って居る様に見えた。 
中島敦は、死の床で、「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまいたい」と言ったそうだが、この小文も彼が抱えていた様々な側面の一つを感じさせる文章と言えるかもしれない。

2016年6月26日日曜日

春色梅児誉美 為永春水 島本理生 訳/日本文学全集11

春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)は、明治維新の36年前、1832年に、為永春水が書いた人情本である。

物語は、唐琴屋という遊女屋の養子だったが、悪い番頭にはめられ、貧乏暮らしをしている丹次郎という男を中心に進む。

この丹次郎、金もなければ、力もない、おまけに節操もない、というないないづくしの男なのだが、不思議と女たちにはモテるという典型的な色男として描かれている。

お長というまだ幼い許嫁がいて彼に惚れているほか、深川藝者の米八からも貢がれ、別の深川藝者の仇吉とも関係している。

一方、 米八の身請けまでしたのにものに出来ない篤実な金持ちの藤兵衛と、お長を危機から救った髪結いのお由も加わり、話はもつれていく。

現代語化されたせいもあるが、今読んでも楽しめる小説になっていると思う。

まるで、一昔前のラブコメを見ているような気分になった。

女性の身分が紙切れ一枚で右から左に動いてゆくところと、最後にすべてが丸く収まるという奇跡的な 解決策が可能な男女関係はさすがに時代が違うとは思うが、男も女も恋愛には愚かであるというところは、今も昔も変わっていない。

会話のテンポよく、特に米八が浮気者の丹次郎に毒つく痴話げんか風の会話の部分は、洒落っ気があって読んでいて楽しくなる。

2016年6月25日土曜日

内田樹の生存戦略/内田樹

本書は、 男性向け雑誌「GQ JAPAN」に連載されている内田樹氏の人生相談をまとめた本書。

読売新聞の人生案内が単行本にまとめられても、たぶん自分は買わないと思うのだが、「内田樹の生存戦略」を手に取って、「人をほめるときの基準を教えてください」の項だけ読んで、これは面白い!とすぐに買ってしまったのは、何故なのだろう、ふと考えてみる。

理由の第一は、内田樹は信頼がおける、とたぶん私自身が感じているからだろう。

第二は、文章が明確で、かつ、どこかに大人の余裕とユーモアを感じているからだろう。

第三は、はっきりと遠慮せず、物を言っているということ。

例えば、サラリーマンから、脱サラして独立しようか迷っています。という相談に、
好きにしてください。まあ、そのまま大企業に入るほうがいいと思いますよ。独立するなら、こんなところに身の上相談しに来る前にもうやっていますから。 
という回答。

内田樹本人が、「僕の人生相談の回答はわりと「冷淡」です」と言いきっている。

その理由は、まえがきに書いてある。
それは質問に直接お答えしないで、そもそもそのような問いがなぜあなたに取り憑いたかという「前提」の分析の方に手間をかけているからです。

…こういう人生相談で、「私はAすべきでしょうか、それともBすべきでしょうか」という問いの形式で訊ねてくる人は、「AかBの二者択一しかない」(でも、どちらも選びたくない)」という袋小路に入り込んでいます。でも、そこにいる限り、悪いけど、出口はありません。
確かに。読んでいて、心地よいのは、狭い視野から解放され、その問いの背景や本質が分析されているからだと思う。

そして、どんな愚問であっても、何より、内田樹本人が面白がって答えているような気がするからでしょうね。

https://www.gov-book.or.jp/book/detail.php?product_id=309299


2016年6月19日日曜日

オリジナル・ラブ 25周年 アニバーサリー・ツアー/関内ホール

久々に、コンサートに行ってきた。
田島貴男(オリジナル・ラブ)の25周年 アニバーサリー・ツアーというお題目で、4時半に関内ホール。

入場まで並んでいて意外だったのは、客層。
自分も四十代半ばで若くないが、年配の人が多いということだ。
というか、若い人がいない。。。
いたと思ったら、小学生ぐらいの子供だったりとか。(たぶん親に無理やり連れてこられたのでしょうね)

会場に入ってからも、その印象は変わらず。

むしろ、60歳ぐらいの人がいたり、いかにも主婦然とした人がいたりして、昔、渋谷系と言われていた時代は何だったのだと逆に衝撃を受けた。

きれいな女性もいたが、自分と同じ世代が多いような印象を受けた。

もう一つ、驚きだったのは、持ち物検査がないこと。
もちろん手間が省けてよかったが、この物騒な時代にこれって大丈夫なの?と若干不安を覚えた。

定刻の5時を10分ほど過ぎて開演。

田島貴男との距離がすごく近い(1階席の前の方だった)

最初の曲は「夜をぶっとばせ」という懐かしい曲。
続いて、「DEEP FRENCH KISS」とこれまた昔の曲だ。
若い頃に聞いた曲というのは、本当に忘れないものだ。

曲の間で、田島さん本人が、今回の曲目を選んでいたら、大体がシングル・カットした曲に落ち着いたと語っていたが、全体的に知っている曲ばかりで非常に懐かしい思いをした。

途中、アコースティックな曲も3・4曲続き、田島さんも客席に向かって、お座りくださいと指示を出すなど、昔と比べるとずいぶんと大人になった印象を受けた(彼のコンサートに最後に行ったのが約20年前なので当たり前といえばそれまでか)。

シングルは、車系のCMに取り上げられたものが多いみたいで(本人が今の曲でも取り上げてほしいPRしていた)、

・Words of Love
・GOOD MORNING GOOD MORNING など(もう1曲あったが、忘れてしまった)

アンコールは3回あって、最新曲「ゴールデンタイム」を紹介した後、4・5曲サービスしてくれた。

独特のノリで途中ついて行けないところもあったが、全体としてとても楽しく、最後まで体を揺らして心地良く疲れ切ることができました。

2016年6月18日土曜日

光と風と夢/中島敦

中島敦は、1942年12月、三十三歳の若さで亡くなっているが、その年、この「光と風と夢」を発表している。

題名が明るいので、中島敦の印象と若干そぐわない印象を受けるが、そのギャップに惹きつけられて、ようやく読み終わった。

原題は、「ツシタラの死」(ツシタラはサモア語で「物語の語り手」という意味)だったが、出版社の要請で変更させられたらしい。

しかし、読んだ印象としては、原題のほうがしっくりとくる。時期的なことを考えると、中島は、自分に近く訪れる死の気配を感じながら、その思いを、この作品の主人公スティーヴンソンに託すつもりだったのかもしれない。

スティーヴンソンは、イギリスの小説家スティーヴンソンのことで、有名な作品「宝島」を書いている。彼も中島同様、生まれつき健康に恵まれなかったらしく、療養地を転々とし、最後に南太平洋のサモア諸島に移住し、最後を迎えた。

中島敦も、死の1年前、南洋のパラオを訪問しており、この南洋の体験も、彼を近くに感じた理由の一つだろう。

物語は、三十五歳のスティーヴンソンが喀血に襲われ、1890年から暮らしはじめた約4年間のサモアの暮らしを、彼が書いた日記を通して描いている。

日記中、たまに強く溢れるスティーヴンソンの感情は、中島敦のそれといっても違和感を感じない。
例えば、
五月XX日
…大体、私は近頃、従来の自分の極彩色描写が段々厭になって来た。最近の私の文体は、次の二つを目指している積りだ。一、無用の形容詞の絶滅。二、視覚的描写への宣戦。


…それに、彼は、父と争論したあとでは何時も、「どうして親の前に出ると斯んな子供っぽい議論しか出来なくなるのだろうか」と、自分でいやになって了うのである。…父に対する甘えが未だ自分に残っており、(ということは、自分が未だ本当に成人でなく)それが、「父が自分をまだ子供と視ていること」と相俟って、こうした結果を齎すのだろうか?…其の頃スティヴンスンは、父と衝突したあとで、何時も決って、この不快な疑問を有たねばならなかった。

十三
…肉体の衰弱と制作の不活溌とに加えて、自己に対し、世界に対しての、名状し難い憤りが、彼の日々を支配した。

五月×日
朝、胃痛ひどく、阿片丁幾服用。ために、咽喉が涸き、手足の痺れるような感じが頻りにする。部分的錯乱と、全体的痴呆。

…性格的乃至心理的小説と誇称する作品がある。何とうるさいことだ、と私は思う。何の為にこんなに、ごたごたと性格説明や心理説明をやって見せるのだ。性格や心理は、表面に現れた行動によってのみ描くべきではないのか? 少くとも、嗜みを知る作家なら、そうするだろう。吃水の浅い船はぐらつく。氷山だって水面下に隠れた部分の方が遥かに大きいのだ。

八月×日
…既に私は、自分に出来るだけの仕事を果して了ったのではないか。それが記念碑として優れたものか、どうかは別として、私は、兎に角書けるだけのものを書きつくしたのではないか。無理に、――この執拗な咳と喘鳴と、関節の疼痛と、喀血と、疲労との中で――生を引延ばすべき理由が何処にあるのだ。

病気が行為への希求を絶って以来、人生とは、私にとって、文学でしかなくなった。文学を創ること。それは、歓びでもなく苦しみでもなく、それは、それとより言いようのないものである。

従って、私の生活は幸福でも不幸でもなかった。私は蚕であった。蚕が、自らの幸、不幸に拘わらず、繭を結ばずにいられないように、私は、言葉の糸を以て物語の繭を結んだだけのことだ。

さて、哀れな病める蚕は、漸くその繭を作り終った。彼の生存には、最早、何の目的も無いではないか。「いや、ある。」と友人の一人が言った。「変形するのだ。蛾になって、繭を喰破って、飛出すのだ。」これは大変結構な譬喩だ。しかし、問題は、私の精神にも肉体にも、繭を喰破るだけの力が残っているか、どうかである。

以上、心に残った部分を引用してみたが、最後の部分の“変形”し、“蛾になって”という部分は、彼に新しい作品を書く意欲が、可能性がまだ残っていたということでしょうね。