なぜ、この小説に惹かれたのだろう。
学校とその雰囲気になじめず、まともな社会生活から離れて神とか真理に傾倒するフラニーに共感する部分があったのかもしれないし、その妹の精神的危機を、饒舌な機知に富んだ話し方で助けようとしたゾーイーに対する憧れもあったのかもしれない。
とにかく、多少大人になってからの自分の気持ちのコアな部分に、初めて近接してきた小説だったので、今回、村上春樹の新訳が出るというので、これは買わずにはいられなかった。
村上春樹は、サリンジャー戦記で、「フラニーとゾーイー」を関西弁で訳したいとコメントしていたのを覚えていたので、まず、それが気になったが、やはり標準語だった(若干残念)。
今回も、村上春樹の新約の読み方は、レイモンド・チャンドラーの新訳を読むときの方法と同じだった。
1.まず、最初に自分が好きなパートの文章を読み、若干の違和感を覚える。
2.次に、その文章を原文と突き合わせて確かめてみる。
3.そして、村上春樹の新約で物語をとおして読む(気になった部分があれば2を行う)。
1.の若干の違和感を覚えるのは、好きな文章であればあるほど、新訳を読むときには起こりがちで、その理由は、前の訳文が記憶に定着してしまっているからだろう。
私の場合、「ゾーイー」では以下の部分だった。
野崎訳
「葉巻は安定剤なんだよ、カワイコちゃん。安定剤以外の何物でもないんだ。もしも葉巻につかまらなければ、あいつ、足が地面から離れてしまう。ぼくたちはわれらがゾーイーに二度と会えなくなっちゃうぜ」
グラース家には、経験を積んだ言葉の曲芸飛行家が何人もいたけれど、今のこういう科白を電話での話の中にうまく持ち込む腕前を持っているのはおそらくゾーイーだけだったろう。村上訳
「葉巻は彼のバラストのようなものなんだよ、スイートハート。安定のためのただの重しだ。葉巻を手にしていないと、身体が宙に浮かび上がってしまうんだ。そうなったら、僕らは二度ともうズーイくんを見られなくなってしまう」
グラス家には言葉の曲芸飛行に長けた子供たちが何人もいる。しかしこの最後の台詞を電話口でさらりと口にできるほどその芸に熟達した人物は、ズーイの他にはまずいない。この部分は、「ゾーイー」で一番好きな部分だったのだが、やはり二人の訳は肌ざわり感が全然違う。初めて読んだときは、なんとなく野崎訳のほうがゾーイー/ズーイの饒舌っぽさの雰囲気が伝わってくる。
まず、村上訳の「バラスト」という言葉が引っかかる。うーんという感じになり、上記で述べた2のステップ――原文を読んでみるとこんな文章だった。
原文
“The cigars are ballast, sweetheart. Sheer ballast. If he didn’t have a cigar to hold on to, his feet would leave the ground. We’d never see our Zooey again.”
There were several experienced verbal stunt pilots in the Glass family, but this last little remark perhaps Zooey alone was coordinated well enough to bring in safely over a telephone.バラストには「気球の砂袋」という意味の他、「心に安定をもたらすもの」という意味がある。野崎訳では後者の意味をとり、村上訳では「気球の砂袋」の意味合いも感じられる。サリンジャーとしては両方の意味合いを持たせているということを考え、村上訳では、あえて「バラスト」にしたのかもしれませんね。
次に「スイートハート」だ。“sweetheart”って、辞書では「恋人」とか、「いとしい人」という意味。そういう意味では、村上訳のほうが原文に忠実だ。野崎訳の「カワイコちゃん」では、ちょっと軽すぎる。
次に、3の作業に移り、作品全体を読み進めていくと、村上訳のよさが段々と分かってきた。
何より素晴らしいのは、ズーイがお風呂上がりなのに、汗びっしょりになりながらフラニーに語りかける(説得といってもいいかも)ところ。この独白のテンポの良さは、読んでいて実に気持ちいい。
ズーイが必死になって彼なりに妹を救おうとする気持ちが伝わってくる。
村上訳を読んで改めて思ったのは、「フラニーとズーイ」は家族小説なのだ。
登場人物は、グラス家の七人兄弟の下から二人の兄妹である表題の二人と、その母親であるベッシーで、その三人のやりとりをナレーションしている次男のバディーの四人だけ。
ズーイは多少ウザったい気持ちで母親のベッシーと話をしながら、精神的に袋小路に入り込んでしまったフラニーのことを考え、フラニーは、かなりウザったい気持ちでズーイの話に耳を貸す。
しかし、三人の間に暖かい情愛が流れているのは伝わってくる。特にフラニーとズーイは、自殺した長兄のシーモアと世捨て人のような次男のバディーに薫陶を受けてしまった精神的な畸形児としての共感が。
フラニーのお祈り、東洋哲学、俳句、キリスト、太ったおばさんの話は、学生時代にとても惹かれた部分でもあったが、今回の新訳では、むしろ家族の愛情のほうが印象に残った。
これは自分が年をとったからなのか、新訳のせいなのかは分からないが。
以下で、村上春樹の解説全文が読める。(本に付いていた別刷りは簡略版)
https://www.shinchosha.co.jp/fz/
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