2022年5月30日月曜日

魚玄機/森鴎外

この作品は、晩年の鴎外の作品としては、異質な印象を受ける。
歴史小説ではあるが、タイトルにもなっているこの物語の主人公「魚玄機」は痴情に絡んで、自らの婢を殺しているからだ。

しかも、魚玄機は色町に生まれた美少女でありながら詩の天才で、同じく詩の天才であった温氏にも認められていた。

その彼女が、李という財産家に見初められ妾になるが、性的不能だった。
その彼女が離縁後、女道士となり、道教の修行中、中気真術により、女に目覚める。
そして、自分より年若い女道士とも関係を持ち、やがて楽士である陳という若者と恋愛関係に落ちる。

しかし、陳が自分の婢(侍女)である緑翹が陳と浮気しているのではないかという猜疑心に囚われ、彼女を絞め殺してしまう。

そして犯行が露見してしまい、魚玄機は死刑に処せられてしまう、という物語だ。

有能な詩人であったのに性欲に囚われ、人生を誤ってしまった女性の悲劇を描いている物語のように思える一方、物語は彼女と同じ詩才があった温氏の人生にも触れているところも面白い。

温氏は詩の才はありながらも、ずけずけとした物言いが災いして出世からは遠ざけられてしまっている。魚玄機が刑に処せられた時には地方の官吏に飛ばされてしまっていた。

共に芸術の才がありながらも、その能力を十分に発揮できないまま、人生を終えてしまった二人。

晩年の鴎外は案外二人の生き方に自分を重ねたような気持になっていたのかもしれない。

2022年5月29日日曜日

山椒大夫/森鴎外

吉田健一の文学展示会に行った際、帰国して間のない吉田に、彼の師匠である河上徹太郎から、日本文学を学ぶのであれば、森鴎外の作品を読んだ方がいいと指導していたという展示物を読んで、確かに森鴎外の文章ははずれがないよなと思ったので、長く敬遠していた「山椒大夫」を読んでみた。

この「山椒大夫」に関しては、物語の悲劇性がどうも肌合いがよくなかった。
山岡大夫や船頭にたやすく騙されてしまった母親にやるせない怒りを感じたからだ。よく考えれば彼女も被害者なのだが、だます悪党よりもあまりにも善人な母親にもう少し用心深く慎重に旅ができなかったのかという変な怒りがあったからかもしれない。

一読したが、非常に長い物語のはずが五十ページ程度に必要最小限に刈り込まれていて、鴎外五十三歳の時の作品らしいが端然とした文章にすきはなく、一流の作家が書いた作品になっているという印象を受けた。

また、想像を裏切られていた点として、厨子王が姉を自殺に追い込んだ山椒大夫に復讐しただろうと思い込んでいたのが、作品では、厨子王は国守となった後、奴婢を解放する政治改革は行うが、山椒大夫への個人的な怨みにもとづいた復讐はせず、「一族はいよいよ富み栄えた」の一文となっていた。

私は、厨子王のあまりにも出来た人格に、彼の心の奥底は、ぼろぼになった母親と姉の無念を思えば、山岡大夫や船頭、山椒大夫への怒りは消えなかったはずだと思った。

私は、かつて丸谷才一が、森鴎外は「美談好き」で、「そめちがえ」という花柳小説すら美談にしてしまったのが原因で作品が面白くない、と評していたのを思い出した。

丸谷才一は、鴎外がそのような「美談好き」となった理由として、彼の社会的立場(軍人であり官吏)や明治人のモラルのほか、当時の日本文学の流れが鴎外の嫌いな自然主義文学が興隆を強めていたこと(美談とは真逆で現実を写実的に表現する)や、江戸期の文明への懐旧の思いかを挙げている。だから、彼は後年、安心して美談が書ける歴史小説と伝記を選んだのだと。

そう考えると、鴎外の職業や時代背景が異なれば、この「山椒大夫」の作風も少し変わったかもしれないと思うとすこし残念だ。もちろん、この作品でも文章は間違いなく一級品なのだが。(説話にあるような残酷な場面をそれこそ自然主義的に書いた作品も嫌だけれど)

2022年5月8日日曜日

チェルノブイリ 「平和の原子力」の闇/アダム・ヒギンボタム

400ページにわたる本文は、膨大な巻末の注釈と参考資料のリストに支えられ、ノンフィクションを読んだという重みがある。

今、この時期にこの本を読み終えて心をよぎったのは、次の点だ。

1.原子力発電所のリスク

本書を読むと、チェルノブイリ原発事故は、決して作業員の過失によって生じたものではなく、RBMKという原子炉が抱えていた重大な瑕疵を隠ぺいしてきた旧ソ連の政府当局の体質が一番の原因だったことが分かる。福島の原発事故も、東京電力が予見出来ていたのに津波対策を怠っていたことをめぐって係争中だが、チェルノブイリは決して特異な例ではなく、自然災害でも原発事故は起こりうることを証明した。
日本ではそれほど放射能による人的被害が報道等で報じられていないが、本書で取り上げられていた多くの犠牲者(原子力発電所の作業員、消防隊員、軍人たち)の甚大な健康被害を思うと、本当にまだ原発を再稼働させる考えを持っているのですか?と問いたくなる。

2.ロシアという国の行く末

今年2月に始まったロシアによるウクライナへの軍事侵攻により、チェルノブイリ原発が、ロシア軍に極めて粗雑で危険なやり方で占拠されるという信じられない事件が発生した。
この本を読むと、曲がりなりにも、事故を収束させようと国の威信にもかけて懸命の努力を払っていたモスクワ(ロシア)が、なぜ、こんな国になってしまったのかという思いに駆られる。当時、最高責任者であったゴルバチョフが不完全ながらも掲げていた「ペレストロイカ(改革)」「グラスノスチ(情報公開)」の精神と逆行している今のプーチン体制にも暗い気持ちになるが、原子力のリスクを全く考慮していないかのようなロシア軍のふるまいに、かつてのソ連が西側と競っていた科学技術力の面影は全く感じられないことも気になった。
当時と全く変わっていないのは、国家の命令で死地に大量に派遣されるロシア国民の命の軽さである。
ロシアという国を捨てて出国するロシア人も増えていると聞くが、大義もなく人の命を粗末にする国は間違いなく滅びる。

3.ドラマ「チェルノブイリ 」との違い

この本を読んで最も印象が変わったのは、チェルノブイリ原子力発電所所長 ブリュハーノフだ。ドラマでは、無責任で上役に調子のよいだけのイメージがあったが、この本では、チェルノブイリ原発の創成期にも触れられており、三十半ばぐらいのブリュハーノフが、十年かけて、チェルノブイリ原子力発電所とその関係者が住むための原子力都市プリーピャチを創りあげた責任者だったということには驚いた。このような仕事ができたということは非凡な才の持ち主であったことは間違いないだろう。その彼が、ほとんど弁明も取り上げてもらえず、事実上の「いけにえ」として、原発事故の責任を取らされたということも、国家に都合よく取り扱われる個人の運命のはかなさを感じた。