Wikipediaで、「エクソフォニー」を調べてみると、Exophony is the practice of (normally creative) writing in a language that is not one's mother tongue.とあった。
母語ではない言葉で書くこと、という意味らしい。
多和田葉子は、日本人でありながらドイツ語でも小説や戯曲を書いているので、エクソフォンな作家と言えると思うが、この本では、母語を離れることで見える、何気ない言葉の意味やそれを使う人々の意識、歴史まで考察していて、興味深い。
例えば、母語以外で小説を書くことの難しさについて、
言葉を小説の書けるような形で記憶するためには、倉庫に次々木箱を運び入れるように記憶するのではだめで、新しい単語が元々蓄積されているいろいろな単語と血管で繋がらないといけない。しかも、一対一で繋がるわけではない。そのため、一個言葉が入るだけで、生命体全体に組み換えが起こり、エネルギーの消費がすさまじい。
という説明は、興味深い。
また、明治時代、日本人がヨーローッパを受け入れなければならなかった事情を、森鴎外の作品「大発見」を引用して語りながら、日本人が草鞋から靴に履き替えたことを取り上げ、
鴎外を読んでいると、西洋が圧倒的に強く、日本が植民地化されてしまうかもしれないという大変な世界情勢のもとで、国が自らの身体に強いて靴を履かせたのだという感じが伝わってくる。そうしなければ文明国と認められず、それを理由に不平等な契約を結ばされたまま、半植民地的な状態が続いてしまう。...歴史書や歴史小説以上に「歴史の手触り」のようなものを伝えてくれた。
と述べ、鴎外が「西洋化」に対してユーモラスで皮肉な距離を失わなかった点を挙げている。
そして、言葉の素性について、
わたしは子供の時に「美」という単語を母語として習い、ずっと後になって外国語であるドイツ語を学んで初めて、Schönheitという単語に出逢ったのだが、実はこれが「美」の元の姿の兄弟だった。ということは、子供の時に出逢った日本語の単語の幾つかは、日本語にやって来た一種の移民だったのだ。
という発見は、外国語を学んでみないと決して実感として湧かない感慨であろう。
最後の方で、作者がとあるワークショップに参加したことで、意味も分からず、一日四時間、フランス語を聞き続けて、
言葉の響きと、響きの持つ仕種や体温や光のおかげで、妙に満たされた気分になってくる。そこにはすべてがあり、意味だけが欠如している。夜になると、異変が起こった。まるで、麻薬でも打ったようになって、生まれてから見たこともないような夢を続けざまに見た。...ひょっとしたら言語の本質は麻薬なのかもしれない。
という体験談も、とても興味深い。