そのそっけないほど簡潔すぎる書簡の文章に、彼の詩作の影が残っているのではないか、熱心な読者は探し求める。
書籍「ランボー、砂漠を行く アフリカ書簡の謎」も、その一つと言っていいだろう。
しかし、「地獄の一季」「イリュミナシオン」を書いた詩人の痕跡は容易に見つからない。
彼が放浪をはじめたのは十六歳の時。
フランス北東部シャルルヴィルからパリへの出奔。
その後、詩人ヴェルレーヌとともに、ブリュッセル、ロンドンに滞在し、
ドイツ語習得を理由にシュトゥットガルトへ。
(この頃、ランボーは二十一歳。すでに詩作は辞めていた)
ミラノ、ウィーンにも行き、オランダ植民地部隊に入隊し、インドシナのバタヴィア(現在のジャカルタ)に。
ケルンではオランダ植民地部隊の志願兵の募集係、ブレーメンでは、アメリカ合衆国海兵隊への入隊を志願するが不許可。
(一方で、兵役に就くのをひどく恐れていたのは何故だろう?)
ハンブルグではサーカス団の従業員、ストックフォルムからコペンハーゲン、アレクサンドリアに向かうも仕事はなく、キプロス島ではイギリス総督の官邸建設工事に従事。
アデン(アラビア半島南端)でコーヒー卸商に雇われ、現エチオピアのハラル代理店に勤務。
その後、アフリカの商人として活動し、ハラル代理店支店長となったのは二十九歳。
ここを拠点に彼は自らラクダを連ねたキャラバンを率いてアフリカ奥地を踏破した。
ヨーロッパの人々が足を踏み入れたことがない未開の地だったが、事務的な内容の書簡に紀行文学のような要素は見当たらない。
アルチュール・ランボーが何故こんなにも定住を嫌い、放浪したのかについて、全く家に近寄らず軍人として各地を転々とした父の影響、そして、反対に秩序と定住を守り、子供たちに教育熱心だった母の影響も考えられるが、本当のところはわからない。
池澤夏樹は、「詩のきらめき」(「影と旋風の地」)の中で、彼が詩人たる自分から必死に逃げていたのではないかという説を述べている。しかし、そうだとしても、その逃亡の結末は劇的かつ残酷なものだった。
二枚のポートレートの変貌が、その印象を増すのかもしれない。
ランボー十七歳。
二十九歳。ハラルで(自分で撮影)
右足を切断するも病状は進み、帰国の半年後に亡くなった。
彼がアフリカで商人として活動した十二年間。成功したというには少な過ぎる財産37,450フランを残し、最後は病床で母や妹を頼り、苦痛の中に死んでいった。
ただ、一つ言えることは、人生の前半で誰にも書くことのできない散文詩の絶頂を極め、その後半では詩人という自己の才能に抗い、詩作の美から徹底して逃げ切った芸術家は誰一人いなかったということだろう。